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 ビニール袋にウンコをしたことがあります。

 いろいろなことがあります。おひさしぶりです、ビューティーでございます。最近はネットの匿名性が問題視されていますが、匿名でないと言えないこともあるのです。顔の隠れた懺悔室で告白をします。私は、コンビニのレジ袋に、ウンコをしたことがあります。

 薄暗い小窓の向こうから、人をバカにしたような笑い声がもれてきた気がしますが話を続けさせていただきます。ただし、どうしてそんなことになってしまったか、またそれがいつの出来事なのかといった細かい事情についてまで、くわしく申し述べる気はありません。人には知っていた方がいいことと、知らなくていいことがあります。ほとんどの人にとって読み書きそろばんを学ぶことは人生を豊かにする上で重要なことですが、全員が相対性理論について知識を深めてディスカッションをする必要はありません。この例えで言うと、ビニール袋にウンコをした経緯や時期の話はどちらかというと相対性理論に近いものです。

 さてビニール袋にウンコをしたあの日、私はそれをぶらさげたまま考え込んでいました。処分についてです。想像していただきたいのですが、ウンコの入ったビニール袋をどこに捨てればよいか、というのは意外と難しい問題です。袋ごとどこかに放置するのはテロに近いレベルの迷惑行為ですし、かといってウンコだけをどこかのトイレに流すこともできません。ウサギのウンコのような状態のものであればそういう手段もとれるのでしょうが、その時はそうではありませんでした。どういうことかをくわしく申し述べる気はありません。人には知っていた方がいいことと知らなくていいことがあり、これは相対性理論に近い方のやつです。

 ウンコの入ったビニール袋を持ってさまよううちに、仏の教えが脳裏をよぎります。「人間とは皆、糞袋である」 ―― 私という糞袋から生まれた、この手にある糞袋。まさしくこれは我が子でありました。ならば手元に置いておくべきであるとも考えられますが、事態は一刻を争う状況だったのです。最近得た情報によると、コンビニのレジ袋というのはコストダウンのため限界まで薄く作ってあるそうです。そんな豆知識を聞いた時、自分はそれを知っていた、と感じました。くわしくは言いません。相対性理論に近いやつです。

 その後、私は自分なりにベストの処分方法を考え、とある場所に糞袋を捨てることにしました。どこなのかは言いません。相対性理論のやつです。捨てた場所をここでは仮に赤ちゃんポストとさせていただきます。赤ちゃんポストに我が子を置いた時、わき上がる罪悪感。責任を全うできない情けなさ。申し訳ない気持ち。それらが一気に私の胸をしめつけました。本当にこれで良かったのか。どうして自分はこんなことをしているのか。なぜこうなってしまったのか。

 うつむく私の前方から、光が差し込みました。思わず顔を上げたその時、私は神を見たのです。こんな自分が許されるはずがありません。しかし、神は、ただ、言いました。

 「いのりなさい」

 「いのりなさい」私の目からは涙がこぼれていました。「いのりなさい」その場から逃げ出したい思いで、私は一心不乱に駆けていました。「いのりなさい」その身体は速度をどんどん増してゆき、とうとう私は光の速さで走っていました。

 

 光の速度で移動する私が見る神の後光。それがどんな形をしていたのか、くわしく申し述べる気はありません。それは相対性理論です。

 世界史の授業をやってない高校が結構あったらしい。

 ばら戦争に出てくる「ランカスター家」って、おいしそうな名前だなあとか思いながらボンヤリ授業を受けてた程度の俺は、世界史という教科自体については特に思うところがない。ちなみに、世界史に出てくる名前で一番おいしそうだと思ったのは「シモン・ド・モンフォール」。たぶん、ふわふわしている。

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 今回のような問題が起こった原因として、ゆとり教育のひずみ、ということが言われている。本質は、通信教育大手のZ会が何年か前に広告に出していた「ゆとり教育はある。ゆとり入試はない。」というキャッチコピーが端的に表していたと思う。大学全入時代とはいえ、いわゆる「いい大学」に行こうと思ったら、文科省の指示するカリキュラムでは入試に対応できなくなっている。大半の生徒がレベルの高い大学を目指す、進学校と呼ばれるような高校を中心に必修逃れの動きがあったのには、そういう背景があるようだ。

 ゆとり教育について個人的に振り返ると、俺が高校生の時に、授業が削減され、毎月第2土曜日が休みになった。すごく嬉しかったので、その時のことははっきり覚えている。

もう、ずいぶんと昔のことです。いつもの通り青空教室に集まると、先生が「今から学習内容を削減する」とおっしゃいました。突然のことでしたのでたいへん驚きましたが、わたくし達は先生のおっしゃる通りに、教科書に墨を塗っていきました。はじめのうちは神聖なる教科書に墨を塗る行為が面白く、皆ではしゃいでおりましたが、先生が次のページも、次のページもと、あんまりすべてのページを塗りつぶすので、ついに級友のひとりが泣き出しそうな声で「先生、先生、これではまるで読むところが無いではありませんか」と言いました。先生は下を向いたまま、「今までの教育は間違っていたのだ」とおっしゃいました。まだ墨塗りは続きました。わたくしの大好きな肉弾三勇士のお話も、兵隊さんよありがとうの歌詞も、円周率の小数点以下も、すべて塗りつぶされました。級友たちは泣きながら畜生、畜生と言いました。先生は下を向いたまま黙っていました。それは夏の暑い日のことでした。抜けるような青空に、真っ黒な教科書が光りました。進駐軍がくれたチューインガムは、ゆとりの味がしました。

 捏造された記憶をたどるのはこれくらいにして、とにかく第2土曜日が休みになった頃のことは覚えてる。詰め込み式の勉強ばかりじゃなく、自分の頭で考える力を育てようみたいな、そういう世の中の流れがたしかにあった。で、どこかの新聞が「休みになった第2土曜日をどう過ごしますか」ってアンケート取ったら、「塾へ行く」が一位で、大人がみんな「えー!?」ってなってた。当時、すでにそういう問題は認識されていた。まあ普通に考えて、進学する生徒は受験が控えているのだから、単純に休みを増やしたところで、じゃあ土曜日が休みだからちょっと河原にあつまって相撲でも取ろうか、とはならない。

 最近、塾や予備校に通うことのできる生徒と、そうでない生徒の間に学力の差が生まれていて、これは階級の固定につながるのではないかと問題視されてるようだが、ゆとり教育の目指すものがテストの点数ではないのにテストの点数だけを競わせているからおかしいわけで、テストで得点する能力だけではなく他の要素をも育てたいと本気で考えるなら、文科省の言う「生きる力」とやらを伸ばしたいなら、土曜日に相撲を取らせたいなら、いろいろな角度から生徒を評価する基準と仕組みがなければならない。

 ただ、そう簡単に評価とは言っても難しいもので、たとえば高校生活の三年間でボランティアを精力的にやっていた生徒を大学に入れてあげますということになった時に、やりたくもないボランティア活動をポイント稼ぎのように行う生徒がたくさん出てきたりすることは目に見えていて、そう考えると、入試科目偏重の教育実態が明らかになった今、文科省や大学側は、前もって告知しない評価基準の採用を検討してくるのではないだろうか。

 だから、いま高校生以下で大学に進学しようという人達は、これから先どんな評価基準が採用されるかわからないので、注意しておいた方がいい。とりあえず、入試当日、校門前におじいさんが倒れていたら助けろ。大学の入学式で「あなたはあの時のおじいさん!」みたいなドラマが起こる可能性は、かつてないほど高まっている。

 おひさしぶりです。

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 このあいだ、30歳になった。自分でびっくりした。子供の頃から何も変わってない自分が30歳になるなんて、まったく思ってなかった。これでわかったのは、変わっていようがいまいが、すべての人は30年経つと平等に30歳になるってことだ。この発見は、是非とも30歳未満のみなさまに伝えておきたいことです。人は、ほうっておくと30歳になります。

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 サイトを更新しないまま、ほぼ一年が過ぎていた。

 好きでサイトを始めて、毎日更新しようと思っていた時期もあったが、時が経つと気持ちも変わっていくものだ。現に、ページ左のリンクコーナーからリンクしているサイトも、この一年で3つも無くなっていった。

 人は、変わっていく。更新を楽しみにしていたサイトは閉鎖し、好きだったバンドは解散し、29歳の中田はサッカー選手としての自分に区切りを付け、昨日ウインブルドン見たらシャラポワの乳首が全然透けてなかった。悲しいことだが、人は変わっていく。また、変わらなければならない。いつまでも同じではいられない。そういうことを思う。

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 今から15年前、武田鉄矢と浅野温子が主演した「101回目のプロポーズ」というドラマがあった。そのドラマに出てくる、「僕は死にません、あなたが好きだから」とか、「僕は誓う、50年後の君を、今と変わらず、愛している」なんていうセリフは当時の流行語にもなった。人は変わっていくものだからこそ、変わらないものに対する憧れがあるのかもしれない。いま考えると、流行語まで殺伐としている昨今と違って、いい時代だなと思う。

 そうは言っても、だ。あなたが好きでも僕は死ぬし、50年後のシワシワの君に、情は移ってるだろうけど「今と変わらず」ってわけにはいかない。ていうか、たぶん今の浅野温子でもちょっとキツい。だいたい、好きで好きでたまらないなんていう時期は、俺に言わせれば、まあ2年だね。いろんな人の話を聞いてても、2年過ぎると、好きだとか、へったくれだとかいうことは二の次になってる。ほぼ例外なく、人の心は変わっていく。あと、余談になるが平成12年以降に101回プロポーズした人間はストーカー規制法によって告訴されている可能性がある。人も変わるが時代も変わる。

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 先月、元・巨人の後藤がドーピングを肯定するかのようなことをブログに書いて話題になった。

自分の命が縮まるのを知ってても、自分の成績を上げるため、自分の技術を上げるために、 限界に挑戦することが悪いことなんだろうか・・???
後藤孝志 - Wikipedia
(原文は削除されている)

 この問いには様々な答えがあるだろうけど、まず思うのは「OKにすると全員が使わざるを得なくなる」ってことだ。成果を競うスポーツの世界で薬物が容認されたら、「使わない」という選択はハンデになる。

 今、北京オリンピックを控えた中国のスポーツ界では、選手の薬物使用が深刻な問題になっている。勝利至上主義が加熱し、コーチが薬物を渡すケースもあるとか。人権が保護されない国では、選手自身が選択を行うことすらできずに犠牲になる場合も出てくるわけだ。選手を守るためには、やはりドーピング規制が必要であると思う。

 一年ぶりの更新なので平気で古い話をするけど、そういえば去年の今頃、世界陸上が行われ、400mハードルで為末が銅メダルを取った。力を使い果たし、倒れ込むようにゴールする姿は感動を呼んだ。

 その為末がレースの数日後、織田裕二にインタビューされて、こんなことを言っていた。

倒れてもいいと思っていれば、ちょっと早く胴体をゴールラインに持って行けるんです。足が折れてもいいと思っていました。足は折れても治りますから。

 そこまでの気迫であったかと、また感動する。でも、他の選手もみんなそれやるようになったらどうなっちゃうんだろう。全員ゴール後に倒れ込む決勝戦。ゴールライン直後に広がる地獄絵図。オリンピックとか世界陸上ごとに骨折する人続出。そうなったら、これも選手保護のために規制する必要が出てくるかもしれない。

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 シャンプーは、髪に悪い。

 もう常識と言っていいと思う。シャンプーに含まれる界面活性剤は頭皮にダメージを与え、抜け毛・薄毛の原因になる。そんなことはみんな知ってるけど、じゃあシャンプーやめようよ、とはならない。

 それはなぜか。もう、おわかりのことと思う。自由競争だからだ。人よりモテようというレースには、規制がない。他人がシャンプーしてるのに、自分だけ汗くさいのはハンデになる。モテたいと思う限り、髪の命が縮まるのを知りながら、身を削ってレースに参加し続けなければならない。このままでいいのか。規制がないことは、自由の代償として際限のない競争を作り出し、格差を生む。

 そういう仕組みに気付いたので、もうシャンプーやめようと思う。もしかしたら、これから俺は人より汗くさくなり、全然モテなくなるかもしれない。生物の宿命ともいえるモテ競争を放棄するのは勇気がいることだ。それでもやはり、誰かが歯止めをかけるべきであると思う。

 しかも。この格差は、最後に逆転するって話だ。界面活性剤のドーピングで身を削りながらレースを続け、満身創痍でゴールラインへ倒れ込んだ同世代の戦士達が、競技場をあとにして髪の抜けた姿で街をさまよう頃、髪フサフサの俺。

 だから、世の女性達には、よく考えてみてほしい。レースは短いが人生は長い。恋をする時期が終わっても、残りが余生ってわけではない。人間は他の生物と違って、繁殖期を過ぎても、楽しいことは、たくさんある。長い目で見て、今ちょっといいにおいだけど競争が終わった途端にみるみる醜く変わっていく男と、今は汗くさいけどずっと変わらない俺の、どっちを選ぶべきなのか。しかも俺は誓う。50年後の君を、今と変わらず、愛している。

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