スポーツライターの二宮清純は、こう話した事がある。「仕事柄あらゆるジャンルのスポーツ選手に会ったが、その時に人間ではないような、得体の知れない真っ黒いオーラを感じた男が二人だけ居た。一人目は長嶋茂雄、もう一人はアントニオ猪木だ。」
この話を聞いたとき、俺は欽ちゃんを思い出していた。欽ちゃんには何か得体の知れない暗黒部のようなものを感じる。それは「萩本家の玄関にあるスリッパは床に接着してあり、リアクションを見られる」「ジミー大西に会った時、こいつは天才だと見込んで1週間自宅に監禁した」等、有名なエピソードから覗く奇人ぶりとはまた違う、もっと別のものだ。
始めに言うが、俺は欽ちゃんの全盛期をリアルタイムでは知らない。小さい頃にかすった程度だ。コント55号のネタも、いい加減大人になってからビデオで見ただけである。
そんな俺が欽ちゃんを意識するようになった最初のきっかけは、中学生の頃に読んでいた宝島にいとうせいこうが連載していた日記コラムで「萩本欽一の再評価を始める」との一文を見かけた時だ。その時、俺にとって欽ちゃんと言えば、小さい頃に「欽ドン!良い子悪い子普通の子」を熱心に見ていた記憶があるものの、中学生になった頃には番組も持っていなかったし、正直「峠を過ぎた芸能人」という認識であり、「いとうせいこうは何を言っているんだろう?」という気持ちだった。
そして何年か経ち、欽ちゃんをしっかり見るチャンスが訪れた。1994年10月「よっ!大将みっけ(CX)」のスタートだ。この番組がスタートするとき、誰もが失敗を予測した。そしてそれは現実になった。第一回放送の時、ワクワクしながらテレビの前に座った俺も、実際に見たのは数秒だった。最初に欽ちゃんがあの人なつっこい笑顔で登場した瞬間、「あぁ、絶対つまんなさそう」と思い、チャンネルを変えてしまったのだ。あれだけ楽しみにしていたのに、なぜかそうしてしまった。その後も視聴率は低迷。順調に半年で打ち切りとなった。いま考えると、「欽ちゃんを見直す」という目的であの番組を見るのは不適切だったと思う。
もう欽ちゃんの事を忘れかけていた頃、今度は激しく欽ちゃん心を揺さぶられてしまう事件が起きた。1998年の長野オリンピック閉会式の司会に欽ちゃんが選ばれたのだ。それが報道された時、「なぜ今頃欽ちゃん!?」と誰もが思ったことだろう。そして時は経ち、一部で「長野の悪夢」とまで言われる閉会式が行われた。これは結構な数の人が記憶していると思う。杏里が歌った「故郷」を忘れても、欽ちゃんのことは覚えているのではないか。あれは俺の周りでもかなり不評だった。「日本の恥さらし」「欽ちゃんを選んだのは間違いだった」「仮装大賞じゃないんだから」等々。
一応、見てない人のためにおおまかに状況を説明すると、あれは1998年2月22日。おごそかに閉会式が始まり、闇に包まれ静寂の中からド派手に現れた欽ちゃん。帽子とマントには電飾が仕込まれ、ビカビカと光を発しながらの登場。その後ハンドマイクで観客に呼びかける。「ふるさとは〜!?」それに観客が応える、「地球〜!!」。
このパフォーマンスが、インテリでハイソでスノッブなみなさんは気に入らなかったらしい。当時、あれに対する批判的な意見や馬鹿にする発言が溢れた。良く耳にしたのは「オリンピックが一気に仮装大賞みたいになってしまった」という言葉だ。ちょっと待て、と俺は言いたい。俺はあれを見て、これ以上ない感動に打ち震えた。正直言うと、さすがに電飾を付けて欽ちゃんが現れた時は、俺も笑った。しかし、それと同時に欽ちゃんから、常人には理解することが出来ないとてつもなく巨大なものを感じ取った。俺の目からは涙がこぼれた。舞台は世界が注目するオリンピックの舞台だ。その場で、あれができる人間が他に居るだろうか。
例えば、だ。あなたが会社の社長で、毎朝朝礼で訓示をたれているとする。ある日、中小企業組合から依頼があって組合員を相手に講演会をすることになった。その時、あなたは普段の朝礼と同じように話すことが出来るだろうか?たぶん、ちょっと格好つけてやろうと思って、読んだこともない箴言集などを手に取り「荘子によれば…」とか「五輪の書にはこんな言葉があるそうです」などと言ってしまう可能性が非常に高い。こんな小さな場の変化でも、人間と言うのは意識をしてしまうものなのだ。そう、「仮装大賞に出る時と何ら変わらないパフォーマンスを選んだ」ところに欽ちゃんのデカさがある。普通の人間なら、世界中が見ているから少し普段より格好つけようとか、世界中が見ているから日本人の代表として世界に通用する芸を見せよう、と邪心が入るはずだ。だが、欽ちゃんはそうじゃなかった。舞台に立っていたのは「世界を視野に入れた芸を見せるスター」でもなく、「日本を代表するコメディアン」でもなく、ただの欽ちゃんだった。そこには欽ちゃんが立っていた。欽ちゃんは、欽ちゃんであることに誇りを持っていた。だからあれだけ大きな場でも、普段と同じ事が出来たのだ。「あんなものを見られて日本人として恥ずかしい」などという庶民の下衆な声なんて欽ちゃんの耳には届かない。
その欽ちゃんがなんと今、漫画を描いているという。作画は、欽ちゃんの弟子でお笑い漫画道場でもお馴染みの車だん吉に依頼。8月にサンデーでの連載も決まっているとか。スポニチに掲載された作品を見たんだが、やっぱりつまらない。絶望的に古い。「テレビ化も視野に入れている」などというコメントを聞くと、大丈夫か欽ちゃん、とさすがの俺も心配になってくる。しかし、あれでいいのかも知れない。欽ちゃんは何をやっても欽ちゃんなのだ。コント55号の頃の狂気が見られなくてもいいじゃないか。欽ちゃんがそこに居て、発信されるものをありがたい気持ちで享受し、その存在に触れる。それで十分じゃないか。そしてそれこそが遅く生まれてしまった俺に許された唯一のリスペクト手段なのだ。
スポニチ2003/5/12〜2003/5/16に掲載された記事全文(1.6メガ)
追記
こんなエピソードがある。
デビュー曲「心のこり」以降、泣かず飛ばずだった細川たかしを再生した欽ちゃん。欽ちゃんは当時を振り返ってこう語る。「細川君が言ったんだよ。『欽ちゃん、僕はもう歌手としてダメかも知れない。これで売れなかったら田舎に帰ろうかと思ってる。だから、どんどんいじってください』って。だからいろいろやらせたの。『小指の〜先に〜火を付けて〜くれたひと〜アチッ!』とかね。普通、演歌歌手の人なんかは歌をいじられるのを絶対いやがるんだけど、彼は本当に何でもやってくれた。」その後も欽ちゃんは細川の新曲をいじりまくる。さまざまなアレンジや、コント仕立て等。その後、欽ちゃんの手によって命を吹き込まれた名曲「北酒場」は、ミリオンセラーとなり見事レコード大賞を受賞する。このあたりの流れは細川たかし公式ホームページに記載された細川本人の回想と若干異なるが(というかかなり違うが)気にしないことにしよう。我々が見るべきはレコード大賞授賞式に現れた欽ちゃんを見て号泣した細川たかしの、欽ちゃんに対する想いだ。その話を聞いて以来、いまだにVTRが放送されるとつい泣いてしまう。俺が何度見ても泣けるシーンは、ヤクルトの荒木がヘルニアから復活して三振とったシーンと、そのシーンだけだ。全く関連性が無いが。